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郷土に学ぶ社会科のページへ
                                       

 陸奥新報で紹介された、NIEのページ「郷土に学ぶ社会科」の過去の記事が読めます。
 弘前市の小学校の先生たちが書きました。
 自分の興味のある内容から見るもよし、タイトルから選ぶもよし。
 自分たちの郷土=ふるさとについて、調べるきっかけにしてみよう。
 

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掲 載 日 タ  イ  ト  ル 内   容
平成16年
 5月16日
藩祖 津軽為信公 〜津軽統一の夢〜 藩祖津軽為信(ためのぶ)公の銅像の建立。為信公の生涯。
 5月23日 信号機のひみつ 発光ダイオードの信号。信号機のしくみ、歴史。
 5月30日 「アイヌ」とは? 〜修学旅行事前学習〜 アイヌの歴史、生活や文化について。
 6月 6日 弘前朝陽と八街朝陽 弘前市の朝陽小学校と千葉県八街市(やちまたし)の朝陽小学校との交流。同じ名前の学校との交流のすすめ。
 6月15日 縄文時代の人口を探る〜あなたは縄文人!?〜 縄文時代の人口について。縄文人のとくちょうと自分の縄文人度がチェックできる表がついているよ。
 6月20日 手作りの津軽塗 津軽塗の上手な使い方や歴史、代表的な4技法について。津軽塗職人の斎藤さんとおこなった津軽塗の授業の紹介。
 6月27日 弘前ねぷたのヒーロー・ヒロインたち 鏡絵(かがみえ)に注目した、ひと味ちがった弘前ねぷたの見方について。三国志や水滸伝のヒーロー・ヒロインたちの鏡絵の紹介。
 7月 4日 わたしたちの生活と米(29)
−米の生産調整について−
イネを植えずに、米を作っていない田んぼから生まれた疑問を解決しよう。「米の生産調整=減反(げんたん)」と、「転作・休耕」について。
 7月11日 おもしろい日本の歴史(1)〜古代編A〜 縄文人の身長についてと、縄文人の食について。「縄文時代の身長は?貝塚って何なの?何を食べてきたの?」という疑問について一緒に考えましょう。
 7月18日 今年も斜里のねぷた見られるかな! 北海道斜里町のねぷたと弘前ねぷた。津軽藩と蝦夷地警備の歴史について。
 7月25日 みちのく人物歴史資料館 弘前市松原にオープンした「みちのく人物歴史資料館」の紹介。
 8月 1日 ねぷたが始まる−ねぷたのルーツは?− 弘前ねぷたはいつから、どのようにして始まったのでしょうか。ねぷたのゆらいについて、歩き目デスの玉ちゃんが調べました。
 8月10日 鬼沢に伝わる鬼伝説の話 弘前市鬼沢(おにざわ)地区に伝わる鬼伝説の紹介。
 8月15日 もう一つの「土淵堰」〜岩木川と用水路〜 岩木川と水、堰(せき)と農業用水、土淵堰(どえんぜき)についてのお話。
 8月22日 縄文時代の住を探る
〜「冬は暖かく、夏は涼しい」縄文の家〜
縄文時代の家の種類と、新しい発掘例から復元された縄文時代の家と住みごごちについて、やる気マンマンのナオキが探りました。
 8月29日 消えゆく遺跡たち@〜福村の早稲田遺跡〜 弘前市福村の早稲田遺跡と、発掘された古代のサイコロのお話。
 9月 5日 国際友好のかけ橋 外国の町や村と姉妹・友好提携を結び、特に仲良くしている青森県の市町村の紹介。
 9月12日 地図帳を開いてみよう2 地図帳に書かれている文字に着目しました。地図帳をどんどん開いてみよう!
 9月19日 新撰組がやってきた
〜新政府軍との戦いに敗れて〜
新撰組が青森県にやってきたお話と、元津軽藩士の新撰組隊士菊地央と千田兵衛のお話など。
 9月26日 みんながここちよく暮らせる街づくり
〜「ユニバーサルデザイン」てなあに〜
だれもが使えるトイレ、だれもが行き交う歩道、県が推進する「ユニバーサルデザイン」…自分の回りのユニバーサルデザインを考えてみよう。
10月10日 学習田活動を通して
〜八十八の苦労を感じよう〜
5年生の学習田体験記の紹介。千歯こきや足踏み脱穀機を使って脱穀しました!





藩祖 津軽為信公
〜津軽統一の夢〜

掲載日:平成16年5月16日

銅像の建立
 歩キ目デスの玉ちゃんは、ニュースで津軽の藩祖為信(ためのぶ)公の銅像が4月20日にお目見えしたことを知りました。文化センターの広場に行くと、津軽を統一した藩祖としてふさわしい姿で堂々と立っているのでした。お父さんに銅像のことを話したら、今の銅像は再建されたもので元々は明治の頃に公園の本丸に立っていたことを聞きました。為信公の生涯や銅像に興味を持った玉ちゃんは、さっそく調べてみることにしました。
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再建された津軽為信公の銅像
為信公の生涯

 為信公は1550年に赤石城で生まれ、18歳で大浦城主となりました。その頃の津軽は三八地方を本拠とする南部氏の支配下にあり、為信は南部から独立し津軽を統一しようと、機会をうかがっていました。戦略と武勇に優れていた為信は、津軽における南部氏最強の城「石川城」を攻めることにしました。時は元亀2年5月、堀越城から出発した為信の軍勢は夜中に奇襲攻撃をかけました。その作戦は成功し、突然の敵襲で大混乱となった石川城は一夜にして落城したのです。しかし、為信はこれで終わらず和徳城に向けて進軍しここも落城させたのです。二つの城は落ちましたが津軽統一をめざすためにはまだまだ敵将が多く、つぎつぎと攻め滅ぼしていったのです。

 @1575年、平賀大光寺城を落城させる
 A1578年、浪岡北畠氏を滅ぼす
 B1585年、青森油川城を落城させる
 C同年に田舎館の掃部政武を滅ぼす
 D1588年、飯詰の朝日氏を滅ぼす。

 このように戦いを重ね、約17年で津軽を統一したのです。しかし津軽は統一したものの、太閤秀吉から朱印状を受けなければ南部氏の反逆者と訴えられる恐れがありました。為信は上洛を急ぎ秀吉に会おうとしましたが、海上で嵐にあったり、陸では敵将の妨害を受けたりしました。ようやく秀吉に会い、津軽の領主と認められたのは1590年のことでした。この後現在の弘前城を築城する計画を立てたのですが、病気には勝てず、弘前城を見ることなく58歳で波乱の生涯を閉じたのでした。
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昭和19年為信公銅像出陣
(「弘前公園愛されて100年」
 陸奥新報社より)
 さて三百年を過ぎた明治39年。この年は日露戦争に勝利した弘前市はわき立っていましたが、「為信公三百年祭」が行われ、記念に為信公の銅像建立が決定されました。そして3年後、台座を含めると8メートルもある為信公銅像が弘前公園本丸中央に建立されたのです。為信公は銅像として復活したのです。
 しかしこの銅像は昭和19年に太平洋戦争の金属供出で差し出すことになりました。為信公の出陣ということで多くの市民が涙とともに見送ったのでした。

 時は流れ平成の現在、市町村が一つにまとまる大合併が大きな話題です。くしくも、そのさ中に再び銅像として復活した為信公。為信公の夢は今、時を越えてよみがえる、そう思う玉ちゃんでした。


信号機のひみつ

掲載日:平成16年5月23日

最近見かけるつぶつぶの信号

「お父さん、信号が赤だよ赤…。あっ、あの赤信号、赤い光のつぶつぶがいっぱいだよ。」

「あれっ、ほんとだな。」

「こっちの歩行者用の信号も。」

 というわけで、最近光のつぶがたくさんある信号灯を見かけることが多くなってきました。どの色もくっきりとして、とても見やすい印象です。
 
この信号はこれまでの電球とレンズを使ったものとは違い、発光ダイオードのつぶを使っています。ちなみに、車用(赤・青・黄の三灯)はつぶが192個、矢印は84個、歩行者用は赤が116個、青は115個でできています。

 それにしてもこの信号機、ある場所の信号はやたらに赤が長かったり、車で進むたびに順々に青に変わったり、ボタンを押したのになかなか青にならないこともあったりで、思わず「なんでだろ〜、なんでだろ〜」と歌ってしまいそうです。
どんどん青になる不思議

 目が三つに足が一本。このおばけなあに?

 答えは「信号」。
 
 こんななぞなぞを子どものころにやった気がします。しかし、信号機は、図に示したように、いろいろな機器がセットになって役目をはたしています。
 
信号灯の色が変わる時間を、道路の込み具合や、月日、曜日などいろいろ計算して命令しているのが信号制御機や交通管制センター(青森市)のコンピュータです。
 信号機は一日中、赤、青、黄のサイクルをそれぞれ同じ時間、点灯させているわけではありません。朝夕のラッシュ時は、車がたくさん通り、渋滞しやすい通りは青の時間を多めにしたり、車が進んでいけば、次々に青に変わって車の流れがスムーズになるように工夫されているのです。

 また、交通量が少ない通りは、車が交差点に近づいたことをヘッドという車両感知器がとらえ、その時だけ信号が青に変わるようになっています。押しボタン式の歩行者用信号の場合はこの流れをボタンを押して作ります。ただし、前にも述べたように信号は周辺の交通量をも計算して反応するので、ボタンを押しさえすれば、必ず、すぐ青に、というわけにはいかない場合もあるのです。
 
こうしてみてくると、信号機には様々な工夫がこらされていて、実に頭のいいハイテク器機であることがわかったと思います。
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信号機の構成。信号機はこのような機器で構成されています。
黄色が進め?

 世界で初めて灯火式(灯りがともる方式)の信号が設置されたのは1868年、英国のロンドンで、赤、緑の二色をガスでともしたそうです。電気式の信号機が登場したのは1918年、米国のニューヨークで、この信号は緑、赤、黄の三色でした。赤は「止まれ」黄は「進め」、緑は「右折、左折よし」だったそうです。日本初の信号機は1930年(昭和5年)東京の日比谷交差点に設置されました。これは米国製で、今の信号機と違うのは、緑の最後に黄も同時に点灯させていました。
 
 見慣れている信号機ですが、調べてみるとなかなか奥が深いですね。
 以上今回は信号にまつわるお話を一席。
 
※協力     弘前警察署
 参考資料 「信号機なんでも読本」 (財団法人日本交通管理技術協会 編集・発行)