今年も斜里のねぷた
見られるかな!

掲載日:平成16年7月18日

北海道斜里町のねぷた

 あちこちにねぶた小屋が立ち始め、風に乗ってお囃子の音が聞こえてくると、津軽の人々は、長い冬を乗り越え、また祭りの季節を迎えられた喜びをかみしめる。どのねぷたも同じだと思いながらも、音が近づいてくると落ち着かず、腰を浮かせるのは、祭りに参加している人々の輝きに、今生きている自分の思いを重ねたいのかもしれない。
 1989年、弘前市市制百周年を記念した弘前ねぷたに、北海道斜里町の回転ねぷたが参加した。津軽には珍しい巨大熊、大鹿、狐のはく製を飾った弘前ねぷたを二台持ち、総勢230人の方々が、弘前市の目抜き通りを歩き、人々の目を引いた。多少なりと、斜里と弘前の関わりが分かっている人は、納得して声援を送ったと思われるが、全く予備知識を持たなかった人たちにとっては、驚きと共に、本当に不思議なことに思えたに違いない。

 このことについては、すでに、私たちの仲間が「津軽藩士殉難の地斜里町(北海道)」と題して、1998年の1月にNIEで紹介しているので、詳細は避けたいと思うが、すでに6年近くの歳月が流れているので、改めて取り上げることにした。
 
 それでは、それまで、弘前市民にとって全く無名といっていい北海道のオホーツク海に面した斜里という町が、なぜ、ねぷたの合同運行に参加することになったのであろうか。

 ことのきっかけほ、今から196年前の文化4〜5年にさかのぼる。この頃、ロシアのわが蝦夷地方北方海域での狼藉は一層激しくなり、津軽藩は、この事件前後25年間出兵していたが、江戸幕府の藩主の家格を上げる形での、警備に対する強硬な要求のため、この年、松前、江差、利尻、宗谷、斜里、択捉に総勢1002人を出兵した。そのうち斜里には100名が向けられた。この時の様子を「知床博物館研究報告」から抜き出してみよう。


…宗谷からオホーツク海沿いに12日かかって到着。この時すでに9月12日。秋であった。ところが斜里には入る家がなく、翌日から慣れない陣屋建築の激しい労働が始まった。

…木材は東方約4キロメートルの青木山から海上を筏に組んで人力で運び、土台石はさらにその東方から蝦夷船に積んで運んだ。雪降る前にとがんばりとおし、五棟も仕上げた。

…寝具は全く不足。衣類は寒さに対応する用意もなく、食生活は、明けても暮れても、船に積んで来た米、味噌、塩のみであった。(斜里では、鮭が手づかみで獲られたが、幕府は、運上屋から塩樽を買うことのみ許可し、魚を獲ることも、アイヌから買うことも禁じていた)。

・11月−病人出始め、寒気が厳しく、雪降り続き、ほとんどが浮腫病にかかった。(今でいう栄養失調)
・12月−大吹雪が大暴れし海水逆流し、川の水飲用出来ず、病没者続出。飯炊き、水汲み、薪割りする者なく、アイヌの青年をやとってようやく切り抜ける。12月死者数18人。


…年が明けても死者は憎え続け、病気引き上げの途中で遂に力尽きた者も含めて、72名が尊い命を落とした

 斜里での一冬は、全く死との闘いであった
 
 昭和48年、斜里町では、禅龍寺に残されていた過去帳を基に、町民の善意を結集して、藩士を葬ったと思われるゆかりの丘に、自然石の立派な慰霊碑を建てた。その時の仏縁で、昭和58年、友好都市の盟約が結ばれ、「ねぷたののれん分け」が行われたのである。 
 72名の死の代償として得られた新しい友好の形は、その命の重さに比べて、あまりに小さいものかもしれないが、歴史の事実から大きな真実を学ぶことで、無念の死を遂げた多くの人々の生への思いを、引き継いでいかなければならないと考える。
 今年も、斜里のねぷた見られるかな!


※参考文献
「津軽藩士殉難事件の概要」金喜多一(斜里町郷土史研究会長) 
「津軽藩士殉難事件の概要とそれにまつわる過去帳と供養碑について」日置順正(知床博物館研究報告から)
「北の海に芽生えた国防意識−蝦夷地警備の歴史が問いかけるもの」原田実