
掲載日:平成16年7月25日
![]() |
| みちのく人物歴史資料館の外観 |
種さらいお銀
館内に入り、一つ目の薄暗い展示室に向かう…と、
「うわーっ、お、お化けーっ。」
夕暮れの川岸に立つ一本のタモの木。着物姿の女は、その木の太い枝に頭髪でくくりつけられ、だらりとつるされていた。
いきなり目に飛び込んできたのは、こんな光景でした。
ここは今月、弘前市松原にオープンした「みちのく人物歴史資料館」の飢饉のコーナー。木につるされたのは、今の岩木町に住んでいた「お銀」という
(江戸時代当時)十六歳の女の子でした。飢饉で食べるものがない中、空腹の弟妹のために庄屋の種籾を盗み、それをとがめられたのでした。お銀は木につるされ、三日三晩泣き叫び、やがて死んでしまいました。二十日たってお銀の体は川に落ち、流されていったそうです。
「種さらいお銀」に象徴される飢饉の悲惨さ。江戸時代はもちろん、冷害による米の凶作はその後も繰り返され、本県の歴史は凶作、飢饉の歴史でもありました。
ところが、昭和の初め、冷害に強く、しかもたくさん収穫できる品種のイネを見抜き、その栽培を奨めた人がいました。
|
農業改革先覚者「田中稔」
展示は、耐冷品種「藤坂五号」を誕生させた「田中稔」のコーナーに移ります。
「どっちを向いて仕事をしているのだ。学会を向いていてはだめだ。
農家に役立つ仕事をしなきゃ。」
田中は、戦時中の物資や人手不足、さらに冷水が湧き出るイネの試験地という逆境を逆手にとり、見事耐冷品種「藤坂五号」を完成させたのでした。
また、田中はイネの根元に管を通して肥料を送り込む「深層追肥」という技術も生み出しました。
こうした田中の研究により、本県の米の単収(決められた広さでとれる米の量)は最下位クラスから全国トップクラスに躍り出ることになりました。
飢饉の悲惨な歴史を大きく変えた田中稔は言わば、本県農業改革の先覚者でした。
七十四人の先覚者たち
そのコーナーの隣は、廊下一本を隔てて、写真家の沢田教一、まんが家の馬場のぼる、スキーヤーの三浦雄一郎、三味線奏者の高橋竹山、白神山地の自然保護運動を進めた根深誠、ねぷた絵師の石沢龍峡他の写真と業績が紹介されています。さらに二階に上がると洋風建築の先覚者、堀江佐吉、彫刻家の三国慶一、探検家の笹森儀助他本県出身やゆかりのある芸術、文化、スポーツ等の各分野で活躍した(活躍中)総勢七十四名の人物の紹介がなされています。
自由研究にも![]()
「みちのく人物歴史資料館」の開館時間は午前九時から午後五時(月曜日、年末年始休館)、入館料は無料です。夏休みの総合学習、社会科自由研究にも利用してみてください。
※協力「みちのく人物歴史資料館」
![]()