もう一つの「土淵堰」〜岩木川と用水路〜

掲載日:平成16年8月15日

 
 楽しい夏休みも残り一過間となりました。宿題の進み具合はどうですか。今年の夏は、晴れ間が多く、海や山へと遊びに出かけた人もいるでしょう。農作物にとっても太陽の光はとても重要です。でも、お天気があまり続き過ぎるのも問題です。雨が降らないと、米やりんご、野菜など、作物の成長に悪影響を及ばします。みなさんは、もう知っていますよね。植物の成長には、日光と水が不可欠です。今日は、その水についてのお話です。


岩木川と水

 蛇口をひねると、当たり前のように流れ出す水道水。川から田畑への水も、自然に堰や用水路へ流れ出る。みなさんは、それを当然のことだと思っていませんか。実は、みなさんが使っている水や農業用水の一部は、白神山地の中にある「雁森岳(がんもりだけ)」から流れてくるのです。
 雁森岳の雨水や雪解け水、それらの小さな一滴は渓流になり、いくつもの川を合わせて母なる岩木川へと成長するのです。岩木川の水は津軽平野を潤し、十三湖を通り日本海に注いでいます。流域に暮らす人々は、昔からその水を農業用水や飲み水などさまざまなことに使ってきました。
 特に、稲作の場合、津軽平野は、青森県の水田の約53%にあたり、岩木川の各種の用水の中で、農業用水の占める割合も約60%にも上ります。また、岩木川の流域面積に対する耕地面積の割合は、約30%で、全国的に有名な川、利根川の25%、信濃川の20%に比べて高く、稲作やりんごづくりには、とても重要なことがわかります。


堰と農業用水

 堰(せき)やポンプで河川から取水し、主に農業用に配水する水路。それが農業用水です。
 岩木川の左右岸には、それぞれもう一つの大きな川があります。でもこれは川ではありません。大きなかんがい面積をもつ農業用水路です。右岸は五所川原堰と呼ばれ、左岸は土淵堰(どえんぜき)と呼ばれています。
 本来、堰とは、川から農業用水路に水を引くための堰止めの場所を指していましたが、津軽地方では、用水路そのものを堰と呼んでいるようです。
 流域の主産業である稲作に必要な用水については、津軽藩の時代から、当時の藩主がその対策に苦労してきました。幾度となく繰り返される洪水のたび、補修や改築等を重ねてきました。その用水堰にまつわる話としては

三省小学校の前を流れる土淵堰

、「川崎権太夫」や「堰八太郎左衛門」の伝説話が有名です。二人は、度重なる洪水から人々を守ろうとして人柱となり、自らの命を捧げました。その後、人々は神社を建て、その霊を祀り、毎年お祭りをしながら感謝の気持ちを今に伝えています。
 つい四十年前までは、堰は木材と石とを組み合わせた構造のため、洪水のたびに災害を繰り返し、取水に困難をきわめていました。また、補修や改築に多くの費用と時間がかかりました。
 現在は、優れた土木技術による堰の建設と数多くの水路の統廃合を実施し、現在に至っています。「○○頭首工(とうしゅこう)」と呼ばれるものは、ある意味では現代の堰と言えるでしょう。


土淵堰(どえんぜき)

 左岸の用水路に代表される土淵堰は、設置された年代の古さとかんがい面積の広さ、水路の長さ等から用水路の代名詞のように言われています。なぜ、土淵堰というのかは不明ですが、三代藩主信義公が正保元年(1644年)に開削したとされています。現在は上流に設置された「岩木川統合頭首工」にその取入口が統合され、水路の名前だけが残されています。

岩木川統合頭首工

 正保元年に設置された土淵堰は、現在の岩木川距離票左岸49.4キロメートル付近(船水地区)に取入口がありました。ところが、昭和三十三年の洪水で、その上流にある川崎権太夫で有名な杭止堰、土淵堰の前身とも言われている長瀬堰、その他、熊島堰など、十二カ所の堰が被害を受けました。杭止堰は単独に「杭止堰頭首工」として、あとの十一カ所の堰は「岩木川統合頭首工」に統合され、網の目状態であったそれぞれの水路も統廃合され、その流末は稲垣村まで続いています。


歴史を伝えるもの

 土淵堰以外にも、青女子堰、萢中堰、大久保堰など、みなさんが住んでいる地区には、大小さまざまな川やどぶ、へこみなどがまだまだあります。しかし、それらには、それぞれに意味や歴史、人間との深いつながりがあるのです。「堰」や「川」に限らず、各地区には、まだまだ歴史を伝えるものが残っていると思います。天気の良い日、一度自分の学区を回ってみてはどうでしょうか。きっと新しい発見があるかもしれませんよ。

岩木川と土淵堰の河道を
調べる三省小学校の4年生